言葉とは裏腹の予感が、世界という身体性によって直覚されたとき、さまざまなものの隠された意味が視えてくる。その底流にある言葉とイメージの連環と、神性についてのより深い理解によって、我々の芸術もまた進化とも呼ぶべき新たな一歩を踏み出すことだろう。
累々と堆積した人類の記憶、起伏のなかでひときわ高く積み重なっている精神の脈絡
それらを微妙に変化させながら、己にとって完成と位置づけ得る生涯ただ一度きりの物語を顕現すべく、我々は手法を変え、試行錯誤を繰り返している。
見えも聞こえもしないが、確かに存在するもの、あるいは信ずるに足ると感じるもの、それは、何なのか。たとえ純粋な動機に端を発したものであっても、自らの直観に照らして醜悪なるものは、打ち消されなければならない。
歴史に無限の断面があり得るように、この試みが完成を見ることはないだろう。しかし、これを我々は、私は、試みなければならない。単に、過去・現在・未来という一元的な見方で世界を捉えることはできない。さらに、それらは絶えず相互に干渉しあいながら変化しつづけている。
たとえば、丘陵という一つの存在の多義性。来るべき未来と過去において穿たれる中腹の暗い穴に、象徴と官能の迫間に、我々は何を視ようとするのか。
詩とは神聖な場所である、おそらく神殿よりも。歌の始まり、あるいは祈りの終焉、息吹。与えられた時間のなかで、できることを考える。何を視るのか。
(2007. 4)