光と光り
シュタイナーの著述のなかに、以下のような行があった。
われわれは光を見ることはできない。われわれは光そのものを見ているのではなく、物に反映する色を見ているだけである……。
つまり、「光り」は見えるが、「光」は見ることができないというのである。そのように私は解釈した。
光と光り。若い頃、この語句の些細な違いに多少の引っ掛かりはあったものの、表記の好みだろうくらいに自分勝手に解釈し、よくよく考えてみるということはなかった。しかし、このようにふとしたことで、ちょっとした疑問が溶解することがある。
わずかな言葉の差異が気になる、そのひとつが、たとえば語尾。「だ。である。」「です。ます。」の違い。これも恐らくは、書き手の好みの問題なのだろうくらいに軽く考えていた時期があった。しかし、そうではない。これは深い意味を含んでいると思う。だが、これも今はまだ、問いのままにとどめておこうと思う。
学生の頃、物理学の講義で、「光は粒子であり、波である」と聞いたことがある。科学的素養のない私には、どういうことなのかよくわからなかった。しかし、この言葉だけは覚えている。
旧約聖書では、「はじめに光ありき」と言っているし、新約聖書では、「はじめに言葉ありき」という記述がある。私はキリスト教徒ではないけれど、言葉も「見えないもの」であることは確かなことのように思う。
移ろっていく自然の上に反映している「光り」には、優しさがあり、美しい。詩人がうたう詩句にもそれはある。
だが、近頃の私は、たとえば「優しさ」や「美しさ」を用いて、あるいはそれを題材として書かれた詩句に耐えられなくなる。耐えられないというのは、嫌悪ということではなくて、いまだ、私のほうが未熟であり、その準備に欠けているということではないか。
近年、趣としてそうしたテーマを直接的に著した詩や文学が多く見受けられるように思う。しかし、私は、しっかりとそれらを読み込んでいこうという気になれない。柄でもないと思ってしまうのである。それらは、「光り」から「光」へと本質に迫るものであるだろうか。
そのようなことは、あったにせよ隠蔽したいと考えるのは、やはり覚悟ができていないということかもしれない。私は、詩の「言葉」においても、その本質を隠蔽した詩に出会うことを望んでいる。
(2005年初稿、一部改稿)