「クリスマスローズ」に関する私記

 日録(1992-1995, 当時の日記より)





1992年 (30歳)

 2/11
書きながら詩に到達することは難しい。

 3/ 
確固とした動機がなければ、詩は虚ろなものに終わる。

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まず社会的に生きるということが、私にとって最初にして最大の屈辱であった。

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美の原型としての花(自然)

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美の原型としての「クリスマスローズ」=花
   プリミティブな空間
   日常性 手記 日記

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おそらくその「光」は外からやってくるのではないだろう。

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「闇」も同様に

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求めるものに到達するためには、徒労を恐れないことだ。

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現実の時間との関係を考えなければならない。 記述の形式  設定が必要だ。かつ、表現は記述的性格を排除しなければならない。 直観的である方が、その効果は大きい。でなければ、あまりに退屈だ。

 5/6
「クリスマスローズ」は破綻をきたす可能性が強い。

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私には「書かなければならない詩」があるのだろうか。

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もし、私が詩を書くことをやめることがあったとしても、「クリスマスローズ」だけは、一つの到達点として完成させなければならない。

 6/12 
「クリスマスローズ」は2行、やっとの思いで書いた。限界を感じる。
限界を常に打ち破るしかない。緩慢な詩は無意味だ。

 6/ 
「クリスマスローズ」に1行を加えるとき、その必須要件のように、私はいつも「確信」を求めている。未だ2行  

 6/29
「クリスマスローズ」は4行。習作の数は夥しかったが、やっと満足できる水準に達した。希望がでてきた。もはや絶望とも呼ぶべき希望だ。

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「クリスマスローズ」は絶望的状況にある。この詩題は破棄すべきなのかもしれない。

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一貫性と断続性を有した長詩は、必然的に叙事詩的色彩を帯びる。 (連詩も例外ではない)

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たとえば、演出におけるスローモーションの技法が、さほど効果的なものとは思えない。時間と細部に関する充足感   しかし、それだけのことだ。作品として、どこかグロテスクで滑稽である。

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実際のクリスマスローズを手に入れ、育てることができればよいのだが  
今日、家の者に、どこかありそうなところにあたってみるように頼んでおいた。どうか手に入りますように  

 7/15
「クリスマスローズ」において私の詩法は根本的な変更を迫られている。 30才の誕生日から書きはじめたこのノート。今日はすでに7/15日だ。なんて時間のたつのは早いんだろう。同じ日に、やはり「クリスマスローズ」の1行目を書いたのだが、今これは根本的に変更せざるを得ない状況にある。この半年(いや、1年半だ)が徒労であったとは思いたくないが  

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言葉遊びは、もうおしまいだ。

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硬直していた「クリスマスローズ」の詩法に様々な方向がありうるのだが、その一つとして、自らを埋葬するというアイデアが浮かんだ。検討に価すると思う。

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アムブロオス(August Wilhelm Ambros)の「音楽と詩の境界」という本を読み終えた。古本屋でたまたま目についたものなのだが、私にとって興味深い点を論じた本だった。つまるところ、創作における作為の排除の重要性という点に強い印象を持った。時折読み返して、まだ見落としていた深い思考と洞察を再発見できそうな本である。

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構造についてあまり考えるのはよそう。内容がそれを決定するのだから  

10/18
クリスマスローズの苗を入手した。オリエンタリスという品種らしい。他に「木立クリスマスローズ」という品種も見たが、これはイメージが違った。







1993年 (31歳)

 2/13
庭のクリスマスローズが咲きかけている。詩の冒頭6行が決まった。

  緋色に輝く経帷子を纏い
  地中深く眠る汝       
  おお哀れむべき愚者よ       
  不吉な痛みよ       
  その手は土くれとなっても       
  天をめざすであろう //

私もこの2/11に31才となった。

 4/28
形にこだわらずに書き進めてゆくべきなのだろう。常に完成形となるべきだ。行数に大きな意味などない。この先は、思えばたのしい作業だ。クリスマスローズの花を見ることができた。新緑も美しい。この花は散らない。

 6/10
銘記しておかなければいけない事がある。言葉をもっと真摯な気持ちから発しなければならない。

 8/23
この崩壊から逃れることができるのだろうか   かつて私は自分の詩のなかでそう書いたのだが、それは思えば、米ソの冷戦という世界の構造(核) そのものに深く関わっていたように思う。今や、1988年以降の情況は少なくともその表層において、激変したように見える。 非常に書き表しにくいことなのだが、「ある種の世界的ムード」の変化がこうした詩行を一見、前時代的、無意味なもののように感じさせるのだ。だが、私にはどうも腑に落ちないのである。 崩壊の意味  正直言って、世界のことなど私にはどうでもいい。それは微妙な変質はあるにせよ、世界のなりゆきとは全く別に、現在の私のなかに依然として存在しつづけている問題のように思える。

11/3
作為をもって行われることは大抵失敗する。自然の流れは、ほぼ決定的なことのように思われる。流れをみる能力。忍耐。

11/ 
詩を書きはじめた頃、瞬間瞬間のイメージを1行に封じ込めるように、記憶のストックとして書き連ねていこうという思いがあった。そして、書きつづけてゆくうち、徐々にある種の方向性、目的性に重きを置くようになった。そして近頃、再びそうした当初のような書き方に戻りつつある。むろん「クリスマスローズ」という大命題が存在していることは確かなのだが、それは作品を創出するための、いわば最終的なフィルターに過ぎない。







1994年 (32歳)

 1/23
30節書き終えた。しだいに全体の構造が堅固なものになってゆく。矛盾が一つ一つ消滅してゆく。

 2/11
以前にも書いたかもしれないが  「クリスマスローズ」は最終的に「無為」なものでなければならない。今45節  

 5/1
全く言葉が出てこない。64節  あと47節。

 5/14
言葉による問いは、しばしばそれ自体、誤っている。例えば「考える」ということが、どういうことかを理解しようとするとき、「私たちは考えている」という前提に立っている。だが、本当にそうだろうか? この言葉に見合う実体が私たちの身体機能に確固たるものとして存在しているとは断言し得ない。 また、「思うこと」と「考えること」を自ら区別できない人間  あるいは、それを常に同時(同様)に行なう者もいるのではないだろうか? 言葉を直観や理性に関連させることもできるが、あやふやな二分法に陥る危険もある。

 5/15
ある学者の「キリスト教と笑い」についての浅薄な論文を読んだ。前提として「イエスは笑ったか?」という問い。
著者はキリストに慈悲深い微笑のイメージを殆ど独断的に重ね合わせていた。私がそれを否定するのもやはり独断ではあるが、決定的な違いは、自らそれを認識しているかどうかである。 キリストが微笑するいわゆる人間的な人物なら、何も苦労して論ずることではない。ごく普通の宗教家、善人(もしくは偽善家) である。実際、正常な生身の人間が笑わないなんて不可能である。
しかし、この時代に、イエス・キリストを論ずるに足るものとして、あえてとりあげるとすれば、私は「彼は決して笑わなかった」と断言する。《事実がどうあれ、私たちの想定するイエス・キリスト》が問題なのだ。 聖書や史実のヒューマニスティックな解釈には、全く興味がない。たとえ歴史的事実として、イエス自身に人間を破滅から救うユーモアの精神が満ち満ちていたとしても、あえて今は、笑わないイエスを想定すべきなのだ。
キリスト教文化の論理的破綻とその精神性  
核心部分の陳腐化と付帯的部分の普遍性  

 9/2
前にも書いたかもしれないが、イエス・キリストが重要なのではない。それに象徴されるもの、それを通して我々が感受しているある種の感覚  その状態と、我々、というより私自身が感じている「ズレ」が肝心なのだ。「背教的人間」のみが体験する感覚  

10/12
8時頃眠り、2時間ほどして目が覚めた。すっかり詩を書ける状態にあることに気づく。音楽を聴く、すると不思議とまた言葉が蘇ってくる。この感覚  

12/3
  少なくとも私が求めている詩とは、現代のイメージの幻想化、装飾化の傾向と全く逆の方向をめざしている。ごく単純な人間ならばそれを簡素化、一元化と誤解するかもしれない。 リアリティは、むしろ極力効果的な表現を削ぎ落としてゆくことで、表出するもののように私には思われる。それは論理的な言葉づかいによるのではない。また、直観的ではあっても、それを「遊び」の要素として用いることは決してないだろう。そうした方法を見いだすと、つい遊ぼうとするのが万人の弱さである。愚かさ  マンガ、二重写し、トリック   詩、現代詩の危険も常に、ここに存在する。







1995年 (33歳)

 2/25
「クリスマスローズ」94節を書いた。あと14節。全体で 108節に変更。

 3/24
「クリスマスローズ」あと7節というところまできた。構成上の仕上がりを考えながら進めている。全節書き上げた後、もう一度推敲が必要となる。

 4/9
「クリスマスローズ」の草稿が完成した。全 648行 108節 第2詩集から数えて、5年の期間を要したことになる。記念すべき日だ。

 4/ 
「クリスマスローズ」の推敲を進めている。仕事は終わった。

 5/22
今夜、少し不思議なことがあった。単なる偶然だろうか?
イエス・キリストについてのTV番組を見ていた。最近の日本の番組としては、めずらしく真摯なものだ。私は音楽を聴きながら、語り手(小川国夫)の声を聞いていた。一方で「クリスマスローズ」の推敲を進めていた。「クリスマスローズ」のなかで、ある箇所に「棗」と入れるべきか「棗椰子」と入れるべきかを考えていた。おそらく「棗椰子」とすべきだろうと思っていたが、記憶があやふやだった。辞典を繰りながら、そして思った。この番組で、いますぐこの答えを語りださないものだろうか  。と、その時、TVの画面には、エルサレムの風景が映し出され、文字テロップが流れた。
「エルサレムには、棗椰子の木々とからし菜が広がり  
棗椰子という言葉が、何回か繰り返された。